浦河に降り立ったとき、頭の中にあったのは「静寂」と「澄んだ空気」だった。都市に住む人間が地方と聞いて思い浮かべる、よくあるイメージだ。
でも国道235号線の脇に立った瞬間、その絵はあっさり崩れた。大型トラックが次々と通り過ぎ、アスファルトの熱がじわりと足元から上がってくる。思わず「思ったより車多いな、空気もそこまで澄んでないかも」と口から出た。静寂とはほど遠い、確かな活気がそこにあった。
滞在中、地元の高校生たちと話す機会があった。
「この町、どう思う?」と聞くと、彼らは少し視線を泳がせて、照れたように言った。「本当に何もないですよ。マックもスタバもないし、遊ぶとこもないし」。自嘲とも諦めともつかない笑みが混じっていた。
都市の感覚で言えば、チェーン店の有無は便利さや発展の指標になる。その尺度で測れば、確かに浦河には「ない」ものが多い。でも、その尺度から少し離れて町を見回したとき、逆のことが目に入ってきた。「ない」ことが、守っているものの多さに気づいたのだ。
どこにでもある均質な店が少ない代わりに、「ここにしかない理由」を持った店が並んでいる。土地の空気を含んだコーヒー、店主の手の温度が残る料理。その均質でない味わいが、そのまま町の輪郭をかたちづくっている。それが淘汰されずに息づいていること自体が、すでにひとつの文化だと思う。
「空気が澄んでいない」という最初の印象も、しばらくすると別の見え方をしてきた。
交通量が多いのは、浦河が単なる通過点ではなく、人と物が交わる場所だからだ。国道を流れる車の音は、この土地の暮らしと経済が動いていることの、低い鼓動のようなものだ。
そしてその鼓動から数歩離れるだけで、世界が変わる。中心からほんの少し外れると、音がほどけて風が戻る。サラブレッドが草を食んでいて、時間がゆるやかに流れている。都市的な機能と圧倒的な自然が、互いを侵すことなく隣り合っている。その均衡が、浦河という場所の呼吸なのだと気づいた。
この町の人たちが自分の町について語るとき、口調は控えめで、ときに自虐的だ。でもそれは、欠如の表明じゃないと思う。
百年以上続く映画館が今も動いていること。世界でも珍しい地質が生んだ山と、海からの涼しい風。毎日の食卓に並ぶ新鮮な魚介。都市ではそれらが「特別なもの」として切り取られる。でも浦河では、それが「当たり前」として流れている。だから語られない。語らないまま、その中で生きている。
豊かさの中に長くいると、それが豊かさだと分からなくなる。あの高校生たちの「何もない」は、もしかすると、そういうことなのかもしれない。
都市での生活では、私たちはたいていの場合「客」として存在している。サービスを受けて、消費して、去る。その匿名性は楽だけど、どこかに孤独を伴う。
浦河の銭湯やスナックで感じたのは、その匿名性が剥がれる感覚だった。外から来た見知らぬ人間を、少しの好奇心と大きな寛容さで迎え入れてくれる。サービスとしてではなく、ただ、人として。
この町の人たちが「何もない」と言うのは、こういうつながりがあまりに当たり前に存在しているから、その価値を数え忘れているだけなんじゃないか。そんな気がした。
浦河で過ごした時間は、自分の中にあった物差しを静かに揺さぶった。
これまで疑いもなく使ってきた「便利か、不便か」「あるか、ないか」という尺度が、ここではうまく機能しない。でも、それを手放したとき、別の輪郭が浮かび上がる。
便利さでは測れない豊かさ。速さでは捉えきれない時間。
国道を走る車の音が、遠くで絶えず響いている。その音を背に受けながら、あの高校生たちのことを思い出す。いつか彼らが、「ない」ことを嘆くのではなく、それを余白として引き受けられるようになったとき、この町の豊かさは外に向けて語られるものではなく、内側から静かに立ち上がるものとして、ちゃんと輪郭を持つのだと思う。