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海と山のあいだにある違い

海と山のあいだにある違い

神戸と浦河は、地図の上では似たような場所に見える。

どちらも海と山が近い。どちらも、限られた平地に人が暮らしている。神戸は六甲山と大阪湾に挟まれた細長い都市で、浦河もまた海岸線と山地のあいだに集落が広がっている。だから浦河に行く前、自分はなんとなく「神戸に似た雰囲気の場所なのかもしれない」と思っていた。

実際に行ってみると、その想像はあっさり裏切られた。

いちばん最初に感じたのは、「ごちゃっとしている」ということだった。いい意味で。

神戸では、海と山と街は、それぞれ別の場所にある。港のほうに行けば海があって、山のほうに行けば緑があって、街の中には商業施設がある。それぞれがきちんと整理されていて、目的に応じて移動する。海を見たければ海へ行く。山に行きたければ山へ行く。当たり前のことだと思っていた。

でも浦河は違った。国道沿いに家があって、そのに牧場があって、少し歩けば海が見えて、振り返ると山がある。それらのあいだに、はっきりした境界線がない。海と山と暮らしが、なんとなくひとつながりになっている。

神戸に住んでいると、自然は「行くもの」だ。公園へ行く、海へ行く、山へ登る。でも浦河では、自然は気づいたら「そこにあるもの」だった。

滞在中、「どこかへ行こう」とあまり思わなかった。

神戸にいると、何かをするためにどこかへ移動する、というのが基本的なリズムになっている。食事するなら飲食店へ、買い物するならショッピングモールへ、自然に触れるなら公園や六甲山へ。生活が、目的地と移動の繰り返しで成り立っている。

浦河では、その感覚がなかった。生活の大半が、ひとつながりの空間の中で完結していた。移動している最中にふと海が目に入って、それで十分だったりする。「自然に触れる」ことが、特別なアクションである必要がない。

はじめは「何もない」と感じかけた。でもそれは、神戸での生活で染みついた「何かをするために移動する」という感覚が邪魔をしていただと思う。浦河では、移動しなくても、何かがそこにある。

もうひとつ気になったのは、時間の流れ方だった。

都市にいると、時間はどんどん細かく区切られていく。何時に起きて、何時に移動して、何時に何をする。効率や利便性を前提に設計された空間の中では、自分の時間もそれに合わせて動くようになる。

浦河では、そのテンポが少し違った。自然のリズムが生活に入り込んでいるせいか、時間がゆるやかに流れているように感じた。それは「のんびりしている」とも言えるかもしれないけど、むしろ「余白がある」という感じに近かった。何もしていない時間が、ちゃんと存在していた。

この経験を通して気づいたのは、「距離」ではなく「関係性」が空間の意味を決めているということだ。

神戸も浦河も、海と山は同じくらい近い。でも、そのあいだに何が介在しているかによって、人と自然の関わり方がまるで変わる。神戸では都市機能が介在していて、自然は管理され、目的を持って訪れるものになっている。浦河では、その介在がほとんどなくて、自然と生活がそのまま隣り合っている。

同じ地形条件でも、空間のあり方はこれだけ違う。それは当たり前のことではなく、特定の歴史や産業や人の暮らし方によって形成されてきたものだ。

浦河に行くまで、神戸での暮らしを「普通」だと思っていた。海と山が近くにあって、交通の便がよくて、何でも揃っている。でもそれは普遍的なものじゃなくて、ある条件のもとで成立している特定のかたちに過ぎない。浦河に行ったことで、自分が当たり前だと思っていた暮らしの輪郭が、はじめて見えた気がした。

一週間という短い滞在で、大げさなことを言うつもりはない。でも、「地域を見る」ということの意味が、少し変わった。場所の優劣を比べるじゃなくて、それぞれの空間がどういう関係性のなかで成り立っているかを考えること。そういう見方が、浦河に行ってはじめてできるようになった気がしている。

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