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「東京に行けば未来がある」は、空気だった。——でも、その空気を吸わせたのは誰だろうか?

「東京に行けば未来がある」は、空気だった。——でも、その空気を吸わせたのは誰だろうか?

第三部:東京は若者に選ばれていない
浦河のホールで、ぼくはフィールドノートにメモを取りながら気づいていた。

藻谷浩介氏の話に、うなずいている自分がいる。数字は鮮やかで、論理は明快で、会場の笑いのタイミングまで計算されているように感じざるを得ないほどに場の支配力が巧みであった。何百回もこれと同じような講演をしてきた節がうかがえる。「そうだ、地方は終わっていない」「そうだ、東京は嘘をついている」
そういう気持ちが、じわじわと胸の内にじわじわと絞りたての雑巾の水滴のごとく広がっている自分自身がいることに気づく。

と同時にぼくは、その「じわじわ」を少し疑っていた。というより大分疑っていた。

聴衆が快感を覚えるとき、それが本当に「真実を知った快感」なのか、「聞きたかったことを聞かされた快感」なのかは、区別しにくい。ぼくは愛知県出身で、地方に価値を見出したくて、地方に積極的に入り込むことを選んできた人間だ。東京の良さももちろん知っているが、そういう人間が「東京は嘘だ」という話を聞いて気持ちよくなるのは、あまりにも自然すぎる。

ぼくは自分のメモをいったん置いて、左の手のひらを見た。毛細血管が透けていた。皮膚の下で赤い網が広がっていて、その一本一本に何かが通っているのがわかった。考えというのは脳だけでするものではないのかもしれないとぼくは思った。手のひら全体も考えていたと思った次第。

1.2%という数字の前に立つ
藻谷氏はクイズを出した。「東京の人口、この5年間で何%増えたと思うか」

会場から声が上がる。20%、30%、もっと増えてる。さすがに増えすぎなのでは?と思った次第。

答えは5年間で1.2%だった。

1年に換算すれば0.24%。1万円を5年預けて120円の利息だ。「最近だとジュース1本も買えないぞ」と藻谷氏は笑い、会場も笑った。

ぼくも笑った。でも笑いながら、少し引っかかっていた。

この数字の見せ方は巧みだ。「1.2%」単体では意味をなさない。「みんなが大きな数字を予想していた」という前提があって初めて、驚きになる。藻谷氏は会場に先に「20%」「30%」と言わせた。その後で1.2%を出す。落差が、数字の重さを生む。

これは嘘ではない。でも、あきらかに長けた演出だ。

数字そのものは正確だろう。問題は数字ではなく、その数字が「何を示しているのか」という文脈だ。

東京の人口が増えにくいのは、当然といえば当然だ。すでに過密だから、物理的に増やしにくい。1.2%という数字が「東京の魅力の低下」を示しているのか、「飽和した都市の自然な状態」を示しているのか、この数字だけでは判断できない。藻谷はそこを、少し滑らかに通り過ぎた。

外国人を除くと5年間で0.4%。日本人だけでは東京も増えていない。この数字は確かに重要だ。でもここで一つの疑問が残る。

東京の人口が増えにくいのは、当然といえば当然だ。すでに過密だから、物理的に増やしにくい。1.2%という数字が「東京の魅力の低下」を示しているのか、「飽和した都市の自然な状態」を示しているのか、この数字だけでは判断できない。藻谷氏はそこを、少し滑らかに通り過ぎた。

外国人を除くと5年間で0.4%。日本人だけでは東京も増えていない。この数字は確かに重要だ。でもここで一つの疑問が残る。

「日本人口が減っているのだから、東京だけが増えるわけがない」という藻谷氏の説明は正しい。ただそれは、「なぜ東京に人が集まり続けるのか」という問いへの答えではない。

人を動かす引力は、総数の増減とは別のところで働いている。

川の流量が変わらなくても、水は低いところに溜まり続ける。東京への人の流れも同じだ。日本全体の人口が減っていても、地方から東京へ向かう流れは止まっていない。数字が増えないのは、同時に東京から出ていく人間も増えているからかもしれない。流入と流出が拮抗した結果の「増えなさ」と、そもそも誰も来なくなった「増えなさ」は、まったく別の現象だ。

1.2%という数字は、その二つを区別しない。

 

「若者が東京に集まる」というイメージはなぜ強いのか?
東京の人口増加の内訳を年齢で分けると、45歳以上の中高年と75歳以上の高齢者は増えている。15歳から44歳の若者は、東京でも減っている。

「だから東京は若者に選ばれていない」——これが藻谷氏の結論だ。

ぼくはフィールドワーカーとして、この数字の「読み方」を一度ほぐしたい。

若者が東京でも減っているということは、全国的な少子化の反映だ。絶対数の減少と、相対的な集中とは別の話だ。若者の絶対数が日本全体で減っている中で、東京の若者比率が維持されているなら、東京への集中は「選ばれていない」のではなく「相変わらず選ばれている」ことを意味する可能性がある。

藻谷氏の言い方は「若者は東京でも減っている」だ。でも「若者の東京集中が緩和されている」かどうかは、比率で見なければわからない。絶対数だけを見せられると、文脈が抜け落ちる。

もちろんぼくは人口学者ではない。ここで断言するつもりもない。

ただ、「1.2%」という数字に驚かされたように、「東京でも若者は減っている」という言葉に、ぼくたちはあまりにも素直に「なるほど」と頷きすぎてはいないだろうか。空気を信じるなと言われた舌の根も乾かぬうちに、今度は数字を信じて同じ顔をしている。
そういうことが、この講演の中でも起きていたかもしれない。

数字は恐ろしい。空気よりもずっと恐ろしいとぼくは切実に思う。空気は感覚で疑えるが、数字は疑う前に腑に落ちてしまう。「なになにという感じ」ではなく、これは事実とは言わんばかりの顔をして差し出されるから、受け取った瞬間に思考が止まる。そしてどの数字を選び、どの順番で並べ、どこで区切るか。その編集の中に、話し手の意図が静かに埋め込まれている。

藻谷浩介氏は「空気ではなく数字を見ろ」と言った。それは一見正しいように映る。でも数字もまた、誰かの手によって切り取られた現実の断片だ。断片は嘘をつかないが、全体を語らない。だからこそ曼荼羅思考が大事なのである。僕が人生史研究を行い地図上にいろんな人たちの人生史を落とし込んで、網羅的に見れるようにしているのもこれに起因する。全体の中の部分という視点が重要なのである。

と同時に一度立ち止まることが要る。数字を前にしても、話し手の立場を問うことが要る。批判的思考力とは、疑い続けることではない。「なるほど」と思った瞬間に、もう一秒だけ考え直す習慣のことだ。

出生率0.99という数字が隠しているもの
東京の出生率は日本最低水準の0.99だ(2023年時点)。大人2人に対して子供が1人も生まれない。

「東京に若者を集めることは、日本の急速な消滅に向かう行為なんです」

この論は構造として正しい。ぼくもそう思う。でも、この言い方は一つのことを見えにくくするように感じた次第。

出生率が低いのは、東京という「場所」の問題なのだろうか?
東京に来る「人」の問題なのだろうか?

地方から東京に出てきた若者は、地元に残っていた場合でも同じように子を産んだのだろうか?出生率の低下は東京生活のコストや環境に起因するのだろうか?それとも上京を選ぶような志向性を持つ人間自体が、もともと出生率が低い傾向を持つのだろうか?

これは「鶏か卵か」の問いだ。でも答えによって、処方箋はまったく変わる。「東京が悪い」なら、分散すれば出生率は上がる。「上京志向の人間が少産傾向を持つ」なら、どこに住んでいても変わらない。

藻谷氏はこの問いを立てなかった。「東京に集めると消える」という因果を、ぼくはもう少しゆっくり検証したい。というか検証したほうが良いだろう。

ぼく自身の嘘を、ここで白状する
正直に言う。

ぼくはこの記事を書きながら、何度か藻谷氏の論に「乗りたくなった」。「そうだ、東京は幻想だ。地方に未来がある」と書きたくなった。それはぼくが地方を旅し、地方に価値を見出し、地方に泥臭く入り込むことを選んできた人間として、とても気持ちのいい結論だからだ。

でもそれは、ぼくが批判してきた「空気を吸う」行為そのものだ。

東京批判の空気を吸うことも、東京礼賛の空気を吸うことも、構造は同じだ。どちらも「データを見て考える」のではなく、「気持ちのいい物語に乗る」という行為だ。

ぼくはフィールドワーカーとして、何百人、何千人もの人間と話してきて人生史を伺った。そこには身体的には記録されているが、データとして記録できていないのももちろんある。その中には東京に出て良かったと言う人間も、帰って良かったと言う人間も、どちらとも言えないと言う人間もいた。統計は誰の声も代表していない。代表できないものだ。

そのことを忘れたくない。というか忘れちゃいけないと思うのだが、読者の皆さんどう考えるだろうか?

「必要だった」という言葉の重さ
ぼくの先輩のひとりは、福島の出身で、東京のIT会社に就職した。

「東京に来てよかったと思う?」と聞いたとき、その人は少し間を置いた。

「よかったかどうかわからないけど、必要だったとは思う」

「必要だった」という言い方が、ずっと頭に残っている。

よかった、ではなく。必要だった。

それは所得の問題ではなかった。出生率の問題でもなかった。「福島にいる自分」から一度距離を置く必要があったという話だった。地元の視線から逃れるという意味での上京だった。

文化人類学的に言えば、これは「場所からの離脱による自己再構成」だ。 人は時に、自分がどういう人間なのかを知るために、自分を形成した場所から出なければならない。東京はその「外部」として機能した。

藻谷氏の数字はこの「必要」を計算に入れない。所得の比較も、出生率の話も、「自己再構成のコスト」をどこにも含んでいない。

地方に残ることで失う「外部への距離」
それはどう測ればいいのだろうか。

測れない。だから藻谷の話には出てこない。「税務署の数字しか信用しない」という姿勢は誠実だが、数字に出ないものだけが人間を動かすことも、ある。

「絶対」という言葉が消すもの
藻谷氏はある場面でこう言った。「田舎出身なら絶対田舎に帰った方がいい」

断言だ。迷いのない、強い言葉だ。

ぼくはこういう断言が好きではない。断言は聴衆に安心を与える。「正解がある」という感覚を与える。でも「絶対」という言葉は、その言葉が届く範囲に入らない人間を、静かに排除する。

地元に帰れない人間がいる。家族と関係が壊れている人間がいる。地元にいることで自分のアイデンティティが窒息しそうになった人間がいる。地方のコミュニティで、「見えすぎる」ことに苦しんだ人間がいる。そういう人間にとって、「絶対田舎に帰った方がいい」は、地図ではなく壁だ。

藻谷氏は人口動態の専門家であり、地域経済の分析家だ。でも個人の「帰れない理由」を抱えた人間の話を、あの断言は聞いていない。

「帰れる人間は帰った方がいいデータが揃っている」ならわかる。でも「絶対」は違う。その一語で、会場にいた誰かの心が、少しだけ閉じたかもしれない。

ぼくはそのことを、ずっと気にしていた。

タイタニックの比喩が正しく、物足りない理由
藻谷氏はタイタニックの比喩を使った。

船全体が沈んでいくとき、まだ浮いている側(東京)にいる人間が、すでに沈んでいる側(地方)を見て「あいつらバカじゃないか」と笑っている。

鮮烈な比喩だ。でもぼくにはひとつの引っかかりがある。

タイタニックは閉鎖系だ。乗客に船を選ぶ自由はない。でも現実の人間は、船を選ぶことができる。国境を越えることも、新しい船を作ることも、海に飛び込んで泳ぐこともできる!

それに、タイタニックの喩えで「地方が先に沈む側」という前提を置いているが、これははたして本当だろうか?

密度の低い地域は、都市型の問題。例えばインフラの過剰集中、高齢者の孤立化、住宅費の高騰からは自由だ。また、食料自給率という意味では、農村の方が「生存」に近い。「消滅」という言葉が示す未来は、人口の消滅であって、生活の消滅ではないかもしれない。

沈む船の比喩は、「人口が減る=終わり」という価値観に乗っかっている。でも人口が少ない状態が「終わり」なのかどうかは、別に問うべき問いだ。次の第四部で密度の話が出てくるなら、そこに繋がる問いとして、ここで残しておきたい。

空気の名前を知ることは重要だ
それでも

東京の人口が5年間で1.2%しか増えていないという事実は、重要だと思う。

「東京に行けば未来がある」という言葉が、事実ではなく「空気」だとしたらその空気の重力に引っ張られて選択を迫られてきた人間が、一度立ち止まれる。

ぼくが伝えたいのはそこだ。「帰れ」でも「残れ」でもなく、「自分がどの空気を吸っているか、その名前を知れ」ということだ。

東京礼賛の空気も、地方賛美の空気も、藻谷の数字も、ぼくのこの文章もすべて「空気」だ。どれかが絶対の正解ではない。

1.2%という数字は冷たい。でもその底冷えする冷たさが、身体全身でほとばしる熱い空気の中で判断を迫られている人間に、一瞬の静けさを与えることがある。手のひらに水をすくって顔を冷やすあの感覚に近い。

静かになったとき、自分が本当に何を求めているかがようやく問えると思うのだ。

それは統計に答えを求めることではない。統計を使って、自分の問いを立て直すことだ。

講演が終わり、ぼくは会場を出た。浦河の空気は、ひんやりしていた。まだらに雨が降っていたようだ。

ぼくは藻谷浩介氏の話をすごいと思っていた。と同時に、その「すごさ」が少し怖かった。わかりやすい話は、人の思考を止めることがある。快感は、問いを終わらせることがある。

「東京に行けば未来がある」という空気と、「地方に戻れば豊かになれる」という空気は、方向が逆なだけで、構造は同じだ。どちらも、聞く人間の思考を省略させる。

ぼくはどちらの空気も吸いたくないとは言わない。完全に空気の外に出ることは、人間にはできない。

ただ、吸っている空気の名前を知っていたい。それだけだ。

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