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「田舎に仕事がない」は嘘だった。  でも、それを教えてくれた人も、東京に家を持っていた。

「田舎に仕事がない」は嘘だった。  でも、それを教えてくれた人も、東京に家を持っていた。

第二部:田舎に仕事がないははたして真実か
地方出身のあなたに、一つ聞いてほしい。

あなたが地元を出たとき、誰かにそう言われなかっただろうか?あるいは、自分自身にそう言い聞かせなかっただろうか?

「あそこには仕事がないから大変だぞ」

ぼくのフィールドノートには、「仕事がない」という言葉が何十回も出てくる。北海道の小さな漁村で聞いた。青森の山間の集落で聞いた。青森の、誰もいなくなりかけた商店街で聞いた。地方を旅するたびに、その言葉は空気のように漂っていた。ぼくはそれを丁寧に書き留めた。「地方の現実」としてである。

その言葉は、嘘だったのかもしれないと思わされたのだ。

浦河のホールで、ぼくの「常識」が崩れた
藻谷浩介氏が壇上に立ったとき、会場の空気は少し緊張していた。彼の講演は、しばしば聴衆の「常識」を正面から殴ることから始まる。僕の尊敬するというか頼りがいのある足立先生と少し似ている節がある。

「東京・札幌・苫小牧・浦河の中で、失業率が最も高いのはどこか」

ぼくは迷わず答えを出した。東京なのでは?

完全に外れた。

正解は、北海道の中でも特に高い傾向にある「札幌」だった。浦河の失業率は東京とほぼ同じ2.1%。世界的には3%以上で「完全雇用」と言われる水準を、すでに下回っている。

「バスが廃業しているのは客がいないからじゃない。運転手がいないからです。タクシーも客がいないんじゃなくて、運転手がいないからタクシーがいない」

この一文で、ぼくのフィールドノートがぐらりと揺れた。

ぼくが地方で「仕事がない」という声を聞いたとき、その言葉の裏側を掘ったことがあっただろうか。そこまで深く深く聞けた自身があるだろうか?書いていて後味が悪いがなかったと思わされた次第である。次からはその微妙なここrの揺らぎにも意識を向けながら無意識でできるくらいになりたいものである。バスが廃業している現場を見て、「人が減ったから需要が消えた」と書いたことがなかっただろうか。

でも実態は逆だ。需要はある。人手がない。「田舎に仕事がない」のではなく、「田舎に働きたい人間がいない」という状況が、すでにある。

所得の話も意外だった
さらに藻谷氏は続けた。

税務署の数字による一人当たり所得で、東京は492万円。浦河はその約3分の2だが、札幌とほぼ同水準で、苫小牧より高い。

「東京で共働きをすると、浦河で共働きしている世帯に比べて実質的にそんなに豊かではない。場合によっては浦河の方が豊かな暮らしができる」

東京の家賃は、ちょっと借りたら月10数万円。家族がいれば20万以上。年間240万の家賃を払いながら、手取り490万で豊かな暮らしができるか——藻谷氏はそう問う。

数字だけ見れば、確かにそうだ。ぼくも東京近郊の神奈川県横浜市で暮らしていた時期の、あの窮屈さを思い出す。広さより立地、蓄えより消費、そういう選択を迫られ続ける感覚だ。

ただ、ここで少し立ち止まらなければならない。

数字の「見え方」と「見えなさ」
藻谷氏の所得比較は鮮やかだが、いくつかの前提が埋め込まれている。

東京の所得492万円は、非正規労働者を多く含む平均値だ。格差が激しい都市では、平均が実態を歪める。高所得層と極端な低所得層が共存しているから、「東京の平均」は誰の現実も正確には映していない可能性がある。

一方、地方の農業・漁業の所得は経費控除後の数字だ。自家消費——自分で作った野菜、獲れた魚、もらった米——という現金以外の豊かさは数値に入っていない。「数字に出ない豊かさ」を加算すれば、地方の優位はさらに大きくなるかもしれないと思った次第だ。

藻谷氏は「税務署の数字しか信用しない」と言った。でもその税務署の数字が、都市と農村で「豊かさ」の異なる層を捉えていないとすれば、比較には限界がある。

これは藻谷氏の論が間違っているということではない。数字の持つ「見えやすさ」と「見えにくさ」の両方に、ぼくたちは敏感でいなければならないということだ。

「仕事がない」という言葉の本当の意味
ある冬、青森の小さな町で一人の男性と話した。

彼は50代で、地元の建設会社を退職し、次の仕事を探していた。「ここには仕事がない」と彼は言った。

ぼくはそれをフィールドノートに書き留めた。「仕事がない地方の現実」としてである。

でも今思い返せば、彼が言っていたのは本当に「仕事がない」ということだったのだろうかと考えを改めなければならないと思う。

建設業を辞めて、でも建設業しかやりたくない。あるいは、あの会社のあの仕事じゃないと嫌だ。あるいは、若い頃と同じ給料でないと働けない。あるいは——もう疲れたから、誰かにそう言いたかっただけかもしれない。

「仕事がない」という言葉は、実は複数の意味を内包している。「求人が存在しない」という客観的な事実ではなく、「自分が納得できる仕事がない」という主観的な感覚かもしれない。あるいは「給料が低い」「やりがいがない」「将来が見えない」という別の不満が、「仕事がない」という言葉に圧縮されているだけかもしれない。

ぼくはその言葉を聞いて、その人の隣に座って、でも本当のところを掘らなかった。それは人生史研究の怠慢だったかもしれない。いや、人生史研究とは関係なく、一人の地方の現実を学ぶ者として、もっと聞くべきだった。

「騙されている」という言い方の引っかかり
藻谷氏は何度か、「田舎の若者が東京に騙されている」という表現を使った。

「田舎はダメだ、消滅する、東京に来い——あの手この手で引き抜いて、裏側では札幌にすら騙されてるんだから」

この言い方に、ぼくはある種の抵抗を感じたというより違和感が心の奥底から湧き出てきた。

「騙されている」という表現は、地方の人間を受動的な存在として描く。正しい情報さえ与えられれば合理的な判断ができるはずなのに、誤った情報を与えられているから間違った選択をしている——そういう構図だ。

でも東京に出た若者たちは、本当に「騙されただけ」なのだろうか。いったん立ち止まりもせずに安易に結論を出すことは僕の嫌悪する速い知性に他ならない。

東京に出ることで得られるものは、所得や家賃の計算に収まらない部分がある。多様な人との出会い、文化的な刺激、匿名性の自由、「地元の目」から逃れる解放感。これらは「豊かさ」の指標には入らないが、確かに存在する価値だ。特に、地方で「見えすぎる」ことに苦しんだ人間にとって、東京の匿名性は命綱になることがある。

「騙されている」のではなく、「そちらを選んだ理由がある」という視点を、ぼくは失いたくない。

そして、ぼくが一番引っかかったこと
ここまで書いてきて、ぼくにはもう一つ、どうしても言わなければならないことがある。

藻谷浩介氏には、東京と熊本の両方に自宅がある。

これは批判ではない。ただ、事実として記しておきたい。東京のうまみを知っている人間が、東京の「騙し」を語る。地方の魅力を説く人が、地方だけに住んでいない。

これは偽善ではないと思う。むしろそういう「両方を知っている人間」が語るからこそ、説得力がある部分もある。と同時に、その立場の人間が「地方で十分だ」と言うとき、それはどこか、自分には選択肢がある人間の言葉でもある。

「地方で十分だ」と言える人と、「地方しかない」と感じている人の間には、見えない断絶がある。だからこそ、中高生、キャリアに悩む社会人のための旅インターンを僕は作るのである。ただいま、プロジェクトは進行中である。楽しみに待っていて欲しい。話を戻そう。

藻谷氏の講演は正しい部分が多い。数字は確かだし、ぼくの思い込みも崩してくれた。でも「地方に残れ、東京に騙されるな」というメッセージを受け取ったとき、ぼくはその言葉を誰が誰に向けて言っているのかを、もう少し考えたくなる。

浦河の飲食店がどんどん廃業しているのは、人が減ったからではなく、後継者がいないからだ。「仕事がない」という言葉の裏側に、もっと複雑な何かが眠っている。ぼくのフィールドノートはその複雑さを、どれだけ書き取れていただろうか。

そして、数字をもって「地方は豊かだ」と言う声に、ぼくは半分うなずき、半分だけ、立ち止まる。

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