Information

数字が揺らす「空気」の地図——藻谷浩介氏の講演を浦河で聞きながら、ぼくは自分の思い込みと格闘していた

数字が揺らす「空気」の地図——藻谷浩介氏の講演を浦河で聞きながら、ぼくは自分の思い込みと格闘していた

第一部「チャッピーの海で溺れていた」
ぼくは地方を出た人間ではない。むしろ逆で、地方に入り込もうとし続けている人間だ。

青森の大学に進んだのも、北海道を二ヶ月かけて公共交通機関と徒歩とヒッチハイクで巡ったのも、浦河まで足を運んだのも、すべて「地方に本当のことがある」という確信からだった。東京生まれの人間が語る地方論より、現地に立った人間が書く記事の方が真実に近いと信じていた。

でも浦河のホールで藻谷浩介氏の話を聞きながら、ぼくはゆっくりと気づいた。

現場に立つことと、現場を正しく見ることは、まったく別の話なのではないかと考えた次第だ。

殺人件数クイズ
講演が始まって五分ほどで、最初のクイズが出た。

「戦後の日本で、殺人事件の件数が一番少なかったのはいつか。昭和25年か、昭和45年か、平成2年か、それとも最近か」

ぼくは迷わなかった。「最近」だ。実感として、知っていた。旅をしていれば肌でわかる。深夜の街が静かになった。喧嘩を見なくなった。地方の祭りでも若者が暴れなくなった。治安は間違いなく良くなっている。

だが会場の空気は違った。

周囲を見ると、「昭和25年」に手を挙げている人がまばらであるが多いように感じた。終戦直後の混乱期、食糧難、闇市——そういう時代が一番危なかったはずだという「空気」がこのホールにもあった。

答えは「最近」だった。

ぼくは当たっていた。しかし藻谷氏はそこで言った。「当たった人に喜ばないでください。これは外れた人のためのやつです」と語気を強めて言った。

外れた人間は「チャッピー君」だという。他人の意見を自分の意見として内面化してしまう人間のことを指す。ChatGPTが多数派の意見を編集して出力するように、人間も「みんなが言っていること」を「自分の意見」として処理する。

「7万年前から人間はそうらしい。遺跡を発掘して解析すると、言葉を喋れるようになったことから、他人の意見を自分の意見にしてしまうようになった」

その瞬間、ぼくは当たったことへの安堵をすっと失った。

ぼくが「最近」と答えたのは、本当に自分の実感からだったか。それとも、「治安が良くなっている」という別の「空気」をどこかで吸い込んでいたからではないだろうか?

外れた人間だけがチャッピーなのではない。正解した人間も、別の空気に乗っていただけかもしれない。藻谷氏の論法はそこまでは言わなかったが、ぼくはその先を考えずにいられなかった。

「空気」という名の海
名古屋に生まれ、横浜で育ち、また名古屋に戻り、そして青森へ——ぼくには「地元」と呼べる場所がない。だからこそ、地方の話を聞くことに強い引力を感じてきた。

でも今思えば、地元を持たないぼくが「地方の真実」を求めて旅をするとき、ぼくの中にはすでに「地方とはこういうものだ」という地図が描かれていたのではないだろうか?

その地図はどこから来たのだろうか。少し日常の出来事を振り返ってみる。

本から来た。旅行記から来た。ネットの記事から来た。そして、会った人たちの言葉から来た。でも会った人たちの言葉だって、その人たちがすでに「地方はこうだ」という空気を吸って語った言葉だ。

ぼくはフィールドワークと呼んでいたが、実はすでに描かれた地図を確認する旅をしていたのかもしれないと思った次第である。

「田舎に仕事がない」という声を何度聞いただろう。

記録した。記事にした。「そうか、仕事がないのか」と書いた。でもその声が本当に意味していたのは何だったのだろうか?突き詰めて考えたかと聞かれれば首を縦に思いきりよくふることはできないだろう。はたして仕事がないだけなのだろうか?給料が低いからだろうか?やりたいと思う仕事がないからなのか?東京に比べてぬるく見えるという劣等感からきているものなのだろうか?

ぼくはその声を聞いて、確認すらせずに「仕事がない地方」という地図の上に点を打ってきたのではないだろうか?いや待てよ。そうではない。

チャッピーへの批判は、誰に向かうのか
藻谷氏の「チャッピー君」という概念は鋭い。でもぼくには一つ引っかかりがある。

外れた人間を「チャッピー」と呼ぶとき、正解した人間は何者なのだろうか?「自分の認識で考えた人間」なのだろうか?しかし「自分の認識」だってどこかから来ている。完全に空気から自由な認識などというものが、人間に可能なのだろうか?

藻谷氏は「数字を見ろ」と言う。数字は空気より信頼できると口を酸っぱくして言う。

確かにそうだ。でも、どの数字を見るかを選ぶのは人間だ。人間は無意識のバイアスを抱えている。どの数字を講演で提示するかを選んだのも藻谷氏だ。数字の選択にも、ある種の「意図」がある。

これは藻谷氏が嘘をついているということではない。数字を使うことと、中立であることは、同じではないということだ。

それでも

ぼくはこの講演で何かが崩れる感覚を味わった。心地よい崩れ方だった。長年信じていた地図の一部が、静かに書き換えられていく感覚だ。

その感覚を正直に書くことが、ぼくにできる最良の仕事だと思う。

ぼくたちは「空気」という名の海の中で生きている。溺れていることに気づかないまま、泳いでいると自分自身で気づかないまま思っている。藻谷浩介氏はその海に、数字という石を投げ込んだ。この講演が終わって新潟県の六日町に滞在している今現在も波紋はまだ広がっている。

Back arr

Contact